佐野元春を語るVol.1

先日の渋谷公会堂での佐野元春のライヴ(99/09/22)に同行した人が、12年振りの佐野元春への再会を表した文章です。元発言は、ニフティの音楽フォーラム9番会議室。本人の同意も取ってあるので、掲載しました。それにしても名文です。

信頼と依存を取り違えてはならない Text by 房之助

「ピアニシモでささやいて」という少女マンガの中の一節なんだそうです。僕は、この一言に、鴻上尚史さんの書評エッセイ「恋愛王」で出会いました。
なんのことかというと、先日、僕が渋谷公会堂で遭遇した、あるシアワセなライブのお話なのです。
僕は、常々アーティストに依存したくないなぁと思います。そのアーティストに対して盲目的に溺れることはしたくない。常に、そのアーティストにはインスパイアされながらも(または、「追いつきたいな」とか「あそこが素敵だなぁ」とかは思いながらも)、いつも、どこか対等な部分を持っていたい。そんなことを言うには、おこがましいくらい素敵すぎるような「相手」もいるのだけれど。
ただ、「このアーティストは信頼できる」と感じられるとき、リスナーの一人として、僕はとてもシアワセになります。
僕が「!」を感じる音楽を、アーティストが「!」と感じながらパフォーマンスしている。無言の了解と共感が、その場の空気の中に満ちあふれる。そして、ぼかぁ自動的に笑顔になってしまうのです。
なんのことかというと、先日、僕が渋谷公会堂で遭遇した、佐野元春のライブのお話。
彼は、疾走するRock'nRoll Kidsです。40過ぎて「キッズ」なんてのもヘンな話しだけれど、それを否定する人はいないと思う。かつて、長い長いキャリア(来年は20周年だそうです!)の中で作ってきたたくさんの曲たちは、ステージの上で一度完全にバラバラにされて、あらためて組み立て直される。いや、組み直しさえされずに、バラバラのまま、ただただ曲のスピリッツだけが、そこにデンと並べて供されるだけなのかもしれない。
99bluesとか、コンプリケーションシェイクダウンとか、はたまたNew Ageとか。
メロディさえも、必要じゃない。まず、風があって、走るべき足があって、駆けていくべきどこかがあって、そして、そのための装置としての曲がある。曲に乗って、僕等はなにかを開放される。どこかへ一緒に走っていくんじゃない。みんなが、自分を開放する方向へ、誰にもしばられず自分で走っていく。統制されているわけじゃない、一方向へ走るわけじゃないのに、そこにいる人たちには、ある種の一体感が生まれる。
これが、ロケンロールのライブ、、、なんだね、きっと。
そして、彼が「ほんの3ヶ月くらい前に書いたような気がする」なんていいながら歌った曲、「僕のタネみたいな曲なんだ」と紹介して歌った曲。「タネ、2だ」と紹介して歌った曲。それぞれが演奏される時、客席があかるく照らされる
と、僕等はなぜか誇らしい気持ちになる。その、誇らしい気持ちというのは、なにか。
きっと、それは、「僕は、信頼できる相手の音楽に、今浸っているんだ」って、その場であらためて確信できたということじゃないかと、僕は思うのです。
僕を誘ってくれた人は、「終わったあと、祝杯あげたくなるようなライブだよ」って始まる前に言っていました。そして、終わったあと、僕等は祝杯をあげました。
祝杯をあげたくなるようなライブ。山のようにインスパイアされた夜。そして、僕は、「彼」に依存することなく、ただ信頼していられる強さを持ちたいと思いながら、また日々暮らし・・・ていけるといいなぁと思いながら、またあの日からの余韻にどこか酔っているのです。もう一週間近くも経つんですが(笑)。
しかし、「ぼかぁコイツのこと信頼できるよ、うん」ってアーティストに出会えること。それって、ホント、シアワセです。

そう、君は俺からはみ出している

再会〜佐野元春の話をしよう

Happy Birthday. MOTO

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